阿美の本棚

阿美の好きな書籍の言葉や、最近好きな「鬼滅の刃」に関するレビューや考察(ネタバレしています)を書いています。

赤ひげ診療譚

(役人にかよい治療停止の命令が出たことに対して赤ひげが保本登に向って言う言葉。)
「いや、なにも云うな、お前がどう思おうと構わぬ、誰がなんと思おうと構わない、たとえこれがばかげた愚痴であろうとも、おれは生きている限り喚きたててやる、お、―」

私の感じた事
世の中理不尽な事だらけ。自分1人が色々言った所でどうなるもんでないと周囲の人は諦めて
しまうものなのかもしれないけど私は決してそうは思わない。云いつづける事でいつかきっと周囲の人間もわかってくれると信じてる。



(小石川療養所に配属されて反発をする保本登に対して先輩の森半太郎が言う言葉。)
「どういうつもりなんです」と半太郎は登を睨みつけた、「いつまでそんなことを続けているつもりなんですか」「そんなこととはなんです」「そのつまらない反抗ですよ」と半太郎が云った、「人の気をひくような、そんな愚かしい反抗をいつまで続けるんです、そのために誰かが同情したり、新出先生があやまったりするとでも思うんですか」登は怒りのために声が出なかった。「よく考えてごらんなさい」半太郎はひそめた声で云った「損をするのは誰でもない、保本さん自身ですよ」

私の感じた事
言われた相手が自分よりも身分が低い、能力のレベルが違うとプライドの高い人間(低い人間
も)が感じる感情。納得行かないのなら無駄な抵抗や妥協ををするんじゃなくて相手に正面でぶつかって納得出来るまでとことん話し合う事の方が重要なのではないだろうか?よく考えてみて、貴方が素直になれない本当の気持を…



(離れに住む狂女に誘惑後襲われた所を赤ひげに助けられて暫くしてからの登の心の変化から)

これらのことはあとでわかったので、そのときはまだ気がつかなかった。そんな女との恥ずかしい出来事にぶっつかったのも、自分を施療所などへ押し込めた人たちの責任で、こっちの知った事ではない。要するにここから出してくれさえすればいいのだ、というふうに、心の中で居直っていた。

私の感じた事
羞恥心ってなんだろうね。それがどんなに自分の心を狭くしているのかわからない人たちは沢山いるみたい。いるみたい。



「残酷には残酷をだー無力な人間に絶望や苦痛を押し付けるやつには、絶望や苦痛がどんなものか味あわせてやらなければならない、そうじゃないか」
- 中略 -
彼は幕府閣僚を呪い、ついにはそういう権力に対する自分の無能を呪った。
「いや、そうじゃない」「俺にはそんな事は出来ない、おれはやっぱり老いぼれのお人好しだ、かれらも人間だということを信じよう、かれらの罪は真の能力がないのに権威の座についたことと、知らなければならないところを知らないところにある、かれらは」
「かれらはもっとも貧困であり、最も愚か者より愚かで無知なのだ。かれらこそ憐れむべき人間どもなのだ」

私の感じた事
ここで言う幕府官僚はこちらの言葉に耳を傾けてくれない人たちのことだと思う。人間は誰しも自分を正当化しようとするものだと思うの。まぁ去定は言い方が過激だけどね。
私と同じような障害を持つ人の中には、数の論理で自分は愚か者(皆と違うと感じる事)だと感じてしまってるけど、本当はそうじゃなくて、そう言う言葉や態度をとる人間こそが本当の愚か者なんだと私は思うの。ここの部分を読んでると改めて実感するよ。



(娼家に往診に赤ひげと登が行った時に若いやくざ者と大立ち回りをした後での会話)
この世から背徳や罪悪をなくす事は出来ないかもしれない。しかし、それらの大部分が貧困と無知からきているとすれば、少なくとも貧困と無知を克服するような努力がはらわれなければならない筈だ。
- 中略 -
人間のすることにはいろいろな面がある。暇に見えて効果ある仕事もあり、徒労のように見えながら、それを持続し積み重ねることによって効果のあらわれる仕事もある。おれの考えること、して来たことは徒労かもしれないが、おれは自分の一生を徒労にうちこんでもいいと信じている。



(五郎吉の家族が一家心中を図って同じ長屋で仲良くしていたおけいと保本登のやり取りで登
いつもは一と匙の塩を気楽に借りる仲でも、極めてつまらない理由―例えば、こっちへ向いて唾をしたとか、朝の挨拶が気にいらなかったとか、へんにつんとしていた、などというたぐいのことで、いっぺんに仇敵のように憎みだすのである。かれらがお互いに、自分を捨てても助け合おうとする情の篤さは、生活に不自由のないに人たちには理解できないであろう、と同時に、かれらの虚飾や傲慢や、自尊心や憎悪などの、素朴なほどむきだしなあらわしかたも、理解する事はできないに相違ない。
一と匙の塩まで借りあい、きょうだい以上につきあいながら、死ななければならないという理由は話せない。貧窮しているため、相手に対する必要を越えた遠慮か、それとも頑迷な、理屈に合わない自尊心の為か、いずれにせよ、五郎吉夫婦には他人に話せない理由があったのだろう。

(気がおかしい振りをして生きている妊婦おえいの真実を聞いて登が感じた事)
こうなんだ、と彼は云いたかった、おえいは十歳という歳で、身を護る決心をした。そうしてやがて子を産むのだろうが、このきびしい世間の風雪の中で、子供を立派に育ててみせると云っている。去定の生き方も同様だ、見た眼に効果のあらわれることより、徒労とみられることを重ねてゆくところに、人間の希望が実るのではないか。おれは徒労とみえることに自分を賭ける、と去定は云った。
― 温床でならどんな芽も育つ、氷の中ででも、芽を育てる情熱があってこそ、しんじつ生きがいがあるのではないか