阿美の本棚

阿美の好きな書籍の言葉や、最近好きな「鬼滅の刃」に関するレビューや考察(ネタバレしています)を書いています。

さぶ

――おれはこの人たちになにをしてやった覚えもない、と栄二は繰返し思った。しかもこの人たちはおれのために心配し、こんなにいたわったり慰めたりしてくれる、それも気まぐれやお義理なんかじゃない、まるでしんみのきょうだい同様じゃないか。栄二は初めそのことになじめなかった。あらしの前とあとでは、彼らぜんたいの気ふうがかわったことも、自分が災難にあってからの自分に示すかれらの気持ちも。――

そして或る日、彼は岡安喜兵衛の云ったことを思いだした。
――おまえが気づかず、また興味がないにしても、この風は秋の爽やかな味がするし、もくせいの花の香が匂っている。栄二はぼんやりとではあるが、その言葉の意味がわかるように思えた。ことによるとおれは、いままでこの人たちを本当に見ていなかったのかもしれないな。風にもくせいが匂っていても嗅ぎわける気がなかったように、この寄場にいる者たちには、ずっとまえからこういう気ふうがあったのかもしれない、と彼は思った。こういう考えが心にうかぶと、彼はなんとなく胸がひろがって、呼吸が楽になる感じ、また、新しく眼の前にあらわれた広い展望の山河が、少しずつ見わけられるようなおちつきを感じた。

手習いをするのにうまい字を書こうと思うな、と芳古堂の親方がくどいほど云った。うまい字を書こうとすると嘘になる、字というやつはその人の本性をあらわすものだ。いくらうまい字を書いても、その人間の本性が出ていないものは字ではない。上手いへたは問題ではない、自分を偽らずただ正直に書け、親方はいつも云っていた。「覚えているだろう、さぶ」栄二はさぶからの手紙を取り戻し、それを膝の上でひろげた。「おめえを前に置いて云いにくいが、この字こそ本筋なんだ、仮に字だけに限るとすれば、おめえはおれの上に立っているんだぜ」

「どんな人間だって独りで生きるもんじゃあない」と与平は栄二の言葉を聞きながして続けた
「――世の中には賢い人間と賢くない人間がいる、けれども賢い人間ばかりでも、世の中はうまくいかないらしい、損得勘定にしても、損をする者がいればこそ、得をする者があるというもんだろう、もし栄さんが、わたしたちの恩になったと思うなら、わたしたちだけじゃなく、さぶちゃんやおのぶさん、おすえちゃんのことを忘れちゃあだめだ、おまえさんは決して一人ぼっちじゃなかったし、これから先も、一人ぼっちになることなんかあ決してないんだからね」