阿美の本棚

阿美の好きな書籍の言葉や、最近好きな「鬼滅の刃」に関するレビューや考察(ネタバレしています)を書いています。

愛をください(辻仁成作品)

本当の気持ちを隠してるカメレオンより

李理香から基次郎へ

人を信じるのが苦手でしょう、という指摘は誰にでも簡単に見抜けることことなのだろう思うのですが、あなたはその先にこう付け加えていらっしゃいました。
でも李理香さんは、人間を信じたくてしかがない人なんだ、と。
くやしけれど、その通りでした。人間を信用したことが一度もない、人間を信用できない私が、心のそこから望んでいることはつまり恐ろしく馬鹿げたことなのだと思うのですが、一方で、一生で一度でいいから人間を信じてみたいということでもあります。


私は人を好きになったことがありません。それは恋とか愛とかそういう通俗的なものの範疇の話ではなく、普通に、何をもって普通と言うのかは勝手に想像していただくとして、とにかく普通に、ただ好きになるということでさえ、できた試しがないのです。
(中略)
人間を信じたくてしかたがない人なんだ、とはっきり言われたことが一度もなかったせいもあるでしょう。私みたいな頑固でごうじょうっぱりで、精神のひねくれた人間にこれほど明確に直球の言葉を投げつけてきた人がいなかったのもまた理由の一つでばあるのです。


私は社交的な人間ではありません。でも施設の中ではどちらかと言えば社交的に見られがちなのです。明るくないのに、表面だけ、つまり私が生まれながらに作ってきた対社会に向けての外づらというのか、仮面だけを見て、周囲の人たち、特にこの星の光児童養護施設の先生たちは、私を明るい人間だと決めつけているのですから、私はますます孤独、いえ孤立していくわけです。


私は愛という言葉がはき気がするくらい嫌いでしかたがないのです。愛なんて言葉を発明した人間の陽気さと楽天的な性格がうらやましくてしかたがないのかもしれません。

愛される、あるいは、愛する、という行為の全てに反発したくてしかたがありません。でも私は普通の連中のように暴力を使ったり、反抗をしたりはしません。どんなに過酷な虐待を受けても、ここを脱走することはなかった。ひたすら世界を黙殺するだけです。

でもどうか、誤解なさらないで。私に親がいず、捨てられた人間だから、愛を理解できないのではないのです。愛されているふりをしている可哀相な人間と同類になりたくないだけ。だって、世界の99パーセントは嘘でできていて、誰もがみんな幸福そうな顔をしては嘘をつきあって、孤独じゃないふりをしてメール仲間を増やしたりしている姿は、愚かすぎて同情もできないし、呆れ果ててまねる気にもなりません。
 
偽物の愛の中にいることで安心できる人たちがうらやましいと言えば、そうだとも言えます。しかしいつかは化けの皮がはがされるほどの薄っぺらい仮面をかぶるくらいなら、汚いけれど素顔で生きていた方がまだ楽なのです。
いつもそんな風に思っていました。だから死への憧れは、つまり偽物からの離脱という美しい響きを持って私に迫って、私をそそのかすのです。


私を救ったのは書物でした。図書館に積み上げられた無数の本たち。それは私が自分の意思で手に取らなければ決して扉を開いてはくれない本当の友人でした。彼らは嘘をつくことはなかった。いや逆です。いい小説とは完璧な嘘で作られたもう一つの本物だったのです。だから私は書物との出会いを通して、人生のすばらしさを知ることができるようになっていくのです。孤独と友だちになれたのはその頃でした。書物を通して一人遊びのこつを覚えていきました。

白鳥になりたいペンギンより

李理香から基次郎へ

人間はいつ頃から、大人になってしまうのかな。そしてみんなどうしてあんなに意地悪で悪意のかたまりになっていくのか、それがわからない。無邪気に走り回る子供たちの天真爛漫な姿の中に、私が救いを見ているのも事実で、でもいつまでもそうしていられるのかと考えては、未来が少し不安になったりもする。

基次郎から李理香へ

自分だけの世界か、そう思うと、さびしさなんか大した問題じゃないんじゃないか。孤独は一番の友だちだと思う時がある。孤独と仲良くできた時に僕らは幸福を覚えるような気もする。今、君はそれができるところにいる。そこは君だけの空間なんだもの。誰もそこには踏み入ることはできない。


PS:嫌な人間というのはどこに行っても必ずいます。嫌な人間のいない世界というものはこの地上には存在しないと思う。では、なぜ嫌な人間がこんなに溢れているのか?
それはきっと神様が君や僕に試練を与えてくださって、そういう連中を使って人生の勉強をさせてくれているのだと思う。僕はいつも、嫌な人間に出会った時にはそう思うようにしている。

片足でふんばるフラミンゴより
基次郎から李理香へ

君はもう少し周辺を見回してみてはどうか、と思うな。あるいは、外に出かけていく方がいいよ。
友だちがいない、というのは僕もいっしょだけど、僕はある時から無理して仲間をつくるようにした。みんながみんないい友だちにはならないけれど、いろんな奴と出会うことで人と向き合う基準が増える。人間には人間の数だけ存在理由があるんだってことも気がついていく。

基次郎から李理香へ

ただ叱られたいというのはわかる。時にはそういうことも必要だと思う。でも叱られたからといって、君が抱えている孤独の闇が本質的に光に照らしだされる、ということはないと思う。君は君の力でこの苦悩の洞穴から抜け出るしか方法はないだろうね。
(中略)
人間本当はがんばる必要なんかないんだ。そう思うとおかしなもので逆に力が出てくる。だめになる人というのは、自分に負担をかけすぎてしまう人たちなんだと思う。がんばらなくてもいい、自分のペースで進んでいけばいいんだ。

おしゃべりな九官鳥より

基次郎から李理香へ

でもやっぱりこの子はどんな状態になっても前向きさを忘れない強い子だ。決して最後まで人生をなげないで、生ききろうとする姿には逆にこちらが励まされてしまう。彼女の口ぐせは、笑おう、というものなんだ。笑おう、とにかく人間は悲しむために生まれてきたんじゃないんだから、笑おう、笑わせて、もっと私を笑わせて、と言うんだ。

心に棘を生やしているサボテンより

基次郎から李理香へ

だから僕は心の底で人間や境遇を呪ったことはなかった。つらいとは思っても、いつも何かこれは意味がある、と思い込んでいた。自分を励ますためにそう思ったのではないんだ。本気でそう思っていた。それが僕にとっては救いでもあったのかな。考えるに、信仰心のある人もない人にも、生き物全てに神や仏やそれ以上の存在から、同等に差し伸べられている手があるように思う。それに気がついて、それをつかむかどうかはそれぞれの自由ということになるんだけれど、本当のところで人間には不平等はないように思うよ。